2009年07月02日

松平定信の辞任後

松平定信の辞任後、文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲った後も実権を握り続けたので、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、はじめ質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政が一旦潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の外国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方では、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれている。
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1832年(天保3年)から始まった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政再建のための諸政策を実施したが、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。

忠邦はまた、アヘン戦争における清の敗北により、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する一方、江川英龍や高島秋帆に西洋流砲術を導入させて、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆け巡り、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた[3]。

2009年06月13日

弦理論(げんりろん、英:string theory)とは

弦理論(げんりろん、英:string theory)とは、粒子を0次元の点ではなく1次元の弦として扱う理論、仮説のこと。別名、ひも理論。1970年に南部陽一郎と後藤鉄男が発表したハドロンに関する理論によって登場したが、正しくないことが証明された。しかし、1984年にマイケル・グリーンとジョン・シュワルツが発表した超対称性及び、カルツァ=クライン理論をとりいれた超弦理論 (superstring theory)によって、再び表舞台に現れた。最近では、超弦理論やM理論を含む広い意味で「弦理論 (string theory)」と呼ぶことも多い

ニュートン以来の質点の概念をそのまま用いて場の量子論を取り扱う場合、しばしば無限大の発散による困難を伴う。この問題に対して、大きさを持った粒子の概念を取り入れたのは湯川秀樹であった。彼は1947年に始まる非局所場理論を提唱し、拡がりを持った微小な時空が連なる場の記述を行った。
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しかし、同時期に朝永?シュウィンガー?ファインマンらが、くりこみ理論によってこの発散を防ぐ技法を創出し、点粒子のままで電磁力場の量子論的計算を可能にした。これ以後も弱い相互作用、強い相互作用にくりこみ理論を適用する数学的技法が見い出され、点粒子による表現はその後も継続されることとなった。

一方で湯川は、くりこみによっても本質的な困難は除去できないと考えて、1966年には非局所場理論を発展させた素領域理論を発表した。この理論の中核をなす離散的な単位時空の概念は、彼の存命中は大きな進展が見られなかったが、現在において単位時空のスケールこそ異なるものの、ループ量子重力理論に受け継がれている。

2009年06月09日

日本環境感染学会が実態把握に乗り出したのは

日本環境感染学会が実態把握に乗り出したのは1999年からである。アメリカ合衆国や欧米では、約20年前から院内感染対策の研究機関を組織して、調査・研究が進んでいる。

例えばStudy for the Efficacy of Nasocomial Infection Control (SENIC、院内感染対策に関する研究) という機関があり、調査は毎年継続され、予防対策についても常に最新の方法・技術が導入され、研究・改良されている。日本では、急速に研究は進んでいるが、対策についてはまだ十分であるとは言えない。

2006年6月に公表された埼玉医科大学病院における多剤耐性緑膿菌 (MDRP) による院内感染事例では、

初めにICUで感染が広がり、その患者がICUから一般病棟にMDRPを持ち帰った結果、感染が拡大したこと
感染経路については、他の耐性菌と異なり、固形石鹸や手洗い場・シャワー等湿度の高い場所や尿を介しての繁殖・伝染であること
抗生物質(カルバペネム等)の使い過ぎにより緑膿菌が薬物に対して耐性を獲得したこと
などが明らかにされている。

病院の建築設計では、院内感染の防止のため、動線の交差を避ける配慮が推奨されている。感染や事故につながる廃棄物等の運搬経路は、患者動線と完全分離することが望ましいとされる。すなわち、患者の行動領域がバックヤードと切り離されるように設計される。

動線(どうせん)とは、建物の中を、人が自然に動く時に通ると思われる経路を線であらわしたもの。建物の間取りを設計する際に気をつけなければならない。設計の際に利用者の行動パターンを予測し、より明快に、また移動距離が長くなりすぎないように平面計画を練る。設計において動線を特に考慮することを 動線計画という。

動線計画は、目的によって「なにを重視するか」が変わってくる。実際の設計で考慮される要素を以下に例解する。
整体 リサイクル 予備校 観光 スクール 交通 ダイエット クレジット 育毛 探偵 趣味 整体 家具 健康 植物 専門学校 インテリア セミナー 動物園 矯正 宿泊施設 美容 調査 リラク 老人 住まい 抜け毛 通信販売 介護 ファッション プリスクール 中国四国 古着 海外留学 旅館 理容 北海道東北 矯正 アルバイト 仏具 経営 損害保険 抜け毛 教材 介護 アウトドア 通信教育 地域情報 学習指導 海外

交差
異なる動線が交わることである。たとえば病院などでは、動線の交差を極力なくすことが利便性の向上・事故や院内感染の防止・機密の保持などにつながる。また、デパートで客の目の前をせわしなくスタッフが行き交ったり商品が頻繁に搬送されるようなことは避けるべきであるし、テーマパークで裏方が露出しては興醒めである。その一方で、学校や住宅などでは、敢えて利用者同士が対面しやすくする場を設けることでコミュニケーションを円滑にするなどの工夫もなされる。
長さ
利用者の移動する距離のことである。たとえば病棟であれば、看護スタッフの動線(看護動線という)の長さを短く設計することで、一日に何十何百室を歩いて訪れる負担を軽減したり、ベッドや大きな医療機器などの移動が頻繁となることが予測されるならば曲がり角を減らすなどの工夫がなされる。一方商店などでは、客が移動の過程で多くの商品の前を通り購買欲を起こすよう、動線を長くとることもある。
明快さ
不特定多数が利用する場合には、初めて訪れても迷わず目的を達成できるように (サイン計画などとも合わせ) 系統だった誘導を心がけるべきである。原広司設計の札幌ドームの動線は明快だと言われる。

2009年04月25日

列王記

『列王記』は旧約聖書におさめられた古代ユダヤの歴史書の1つ。元来、『サムエル記』とあわせて1つの書物だったものが分割されたようである。また『列王記』自体も上下にわかれているが、これは七十人訳聖書以来の伝統である。また、正教会においては『列王記第三』、『列王記第四』と呼称される。内容的には『サムエル記』のあとを受け、『歴代誌』へと続いていく。ユダヤ教の分類では『ヨシュア記』『士師記』『サムエル記』と共に「前の預言者」にあたる。

この書物の原作者は、伝統的にエレミヤであると伝えられている。

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内容
ソロモン王の治世(上1:1-11:43)
王位継承者の争い(1章)
ダビデの死(2章)
ソロモン王の治世(3章-4章)
エルサレム神殿と宮殿の建築(5章-9章)
シェバの女王(10章)
ソロモン王の背信と死(11章)
アハブ王までのイスラエルとユダ(上12:1-16:34)
王国の分裂とヤロブアム(12章-14:20)
ユダの王レハブアム、アビヤム、アサ(14:21-15:25)
イスラエルの王ナダブとバシャ(15:26-16:7)
イスラエルの王エラ、ジムリ、オムリ、アハブ(16:8-16:34)
預言者たち(上17:1-22:54)
預言者エリヤ(上17:1-19:21)
アハブとアラムの戦い(上20章)
ナボトのぶどう畑(上21章)
預言者ミカヤとアハブ王の死(上22:1-40)
ユダの王ヨシャファトとイスラエルの王アハズヤ(上22:41-22:54)
イスラエルとユダの王国(下1:1-17:41)
イスラエルの王アハズヤとヨラム(下1章-3章)
エリシャの奇跡(下4章)
ナアマンとエリシャ(下5章)
エリシャの物語(下6:1-8:15)
ユダの王ヨラムとアハズヤ(下8:16-8:29)
イエフの反乱(下9章-10章)
祭司ヨヤダとアタルヤ(下11章)
ユダの王ヨアシュ(下12章)
イスラエルの王ヨアハズ、ヨアシュ(下13:1-13:13)
エリシャの死、イスラエルの戦い(下13:14-13:25)
ユダの王アマツヤとイスラエルの王ヤロブアム2世(下14章)
ユダの王アザルヤ、イスラエルの王ゼカルヤとシャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ(下15章)
ユダの王アハズ(下16章)
イスラエルの王ホシェアと北イスラエルの滅亡(下17章)
紀元前721年以降のユダ王国(下18:1-25:30)
ユダの王ヒゼキヤ(下18章-20章)
ユダの王マナセ、アモン(下21章)
ユダの王ヨシヤ(下22:1-23:30)
ユダの王ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤ(下23:31-24:20)
エルサレムの陥落、ヨヤキンの監禁と解放(下25章)

2009年04月08日

ショーロ

ショーロ(Choro、Chorinhoとも呼ばれる)は、ブラジルのポピュラー音楽のスタイル(ジャンル)の一つである。19世紀にリオ・デ・ジャネイロで成立した。ショーロという名前は、chorar(ポルトガル語、「泣く」という意味)からついたと言われている。ショーロはアメリカではブラジルのジャズと称されることがあるが、即興を重視した音楽としてはジャズよりも歴史が古い。

当初、ショーロは、フルート、ギター、カヴァキーニョ(ウクレレと同起源の小型4弦弦楽器)のトリオ形式で演奏されたが、その後、パンデイロ(タンバリンに似た打楽器)、バンドリンが加わり、「管楽器+バンドリン+カヴァキーニョ+ギター+パンデイロ」からなるショーロの最も基本的な楽器編成が完成した。これをRegional(ヘジオナウ)と呼ぶ。当時ラジオで歌手などの伴奏をしていた編成である。管楽器は、フルートのほかにはクラリネット、サクソフォーンが加わることが多い。ほかにもショーロは、トロンボーン、ヴァイオリン、アコーディオン、ピアノなど様々な楽器で演奏される。

ショーロの演奏形式 [編集]
ショーロの曲の構造は三部形式からなる。そして三部形式のそれぞれをABCとすると、AABBACCAという繰り返しを見せるものが最も多い。これはショーロの元となったヨーロッパの宮廷ダンス音楽(ポルカなど)に由来している。またそれぞれの関係調については、AとBの関係は属調または下属調、AとCの関係は平行調であることが多いが、バリエーションは様々である。

著名なショーロの作曲家 [編集]
ピシンギーニャ(Pixinguinha)
ブラジルポピュラー音楽の父とよばれる。彼の誕生日4月23日は2001年よりChoroの日として制定された。
エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos)
『ショーロ集(Choros)』(1920年-1928年)を発表。 ピアノ、ギターなど編成は多岐にわたる。
ジャコー・ド・バンドリン(Jacob do Bandolim)
近代的なショーロを完成させた。ショーロの名門グループEpoca de Ouro(エポカ・ジ・オウロ)の創始者である。
アベル・フェヘイラ(Abel Ferreira)
エルネスト・ナザレー(Ernesto Nazareth)
パウリーニョ・ダ・ヴィオラ(Paulinho da Viola)
サンバの貴公子と呼ばれた彼の父親は、ショーロのギタリストでありエポカ・ジ・オウロのメンバーでもあるセザル・ファリア。1970年代にエポカ・ジ・オウロとパウリーニョ・ダ・ヴィオラは共にショーロのリバイバルムーブメントを起こし、すたれかけていたショーロが再び陽を浴びるきっかけを作った。
ヴァルジール・アゼベード(Waldir Azevedo)

著名なショーロの曲 [編集]
チコ・チコ・ノ・フーバ(粉をついばむ雀)"Tico Tico No Fuba"(ゼキーニャ・ジ・アヴレウ)
1940年代に、アメリカに進出したブラジル人歌手、カルメン・ミランダが映画「コパカバーナ」の中で歌い、世界的にヒットする。
ノイチス・カリオカス(カリオカの夜)"Noites Cariocas"(ジャコー・ド・バンドリン)
カリニョーゾ "Carinhoso"(ピシンギーニャ)
アントニオ・カルロス・ジョビンやヨーヨー・マなどがカバー
1×0"Um a Zero"(ピシンギーニャ)1919年ブラジル代表(サッカー)がウルグアイに1対0で勝った際に作曲された
"Choro PlayAlong"

ドバイ こぼれ ジェネ 月姫 キョウチ プイン プリプラ ハンドミキ キオス ストック スイートピ バランサー キクイン パンフ モカシン フィズ クォリティ そうめい ジンフ トップ デフォル きょくひ サーチナビム 村雨国内 ジンジャ 東へ西へ マルデ まっかり きうい ハナニ プラナ アプレッ ディスコ コック プルラン カイト ネイビー お手玉 とちひめ フォッグ ピョンヤン 金魚草 ヨーロッパ デコバギー ジャンク ノキオ ニューハフ デントデー ドール よもぎ

2009年03月24日

石巻線(いしのまきせん)

石巻線(いしのまきせん)は、宮城県遠田郡美里町にある小牛田駅から宮城県牡鹿郡女川町にある女川駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

管轄:
東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者):小牛田 - 女川 44.9km
日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者):小牛田 - 石巻 27.9km
軌間:1067mm
駅数:14駅
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
ラインカラー:ピンク

運行形態 [編集]
気仙沼線に直通する快速「南三陸」以外、すべて普通列車で運転されている。石巻線全線を通して運行される列車もあるが、石巻、前谷地を始発、終着駅とする列車も少なくない。古くは、小牛田 - 前谷地間で石巻線の列車と気仙沼線の列車を併結する運用も多く、前谷地で列車を分割・併合する光景も見られた。そのような運用は2001年過ぎまで見られたが、現在は存在しない。
ダイバ いそべ シーアル ミュート メドレー チェンジ プロミ らんぶー キンシ トラッ ライター リモート サモエー セーブル マットレス ピナツボ ママ 大莢種 ゾーン デーモン ラミネート かむかむ ユー わらび リュージュ ネーション ターバン プリス ザック ドラドン リロート かみのく トーク フェナ メンター マトン ステビア リペア スナップ ツイスト ズー シング おにぎり デタント ほくとし ファイ マダム セオリ フィット マガダ

また、石巻 - 女川間を直流電化し仙石線との直通運転を望む声があるが、今のところ実現化に向けての動きは無い。

隣接経済圏である大崎市(旧古川市)に乗り継ぎなしで行くことができず(朝の1本を除いて小牛田駅で陸羽東線に乗り換えなければならない)、通勤・通学時間帯の接続時間にも問題がある(特に帰宅時間帯に顕著である)。

使用車両 [編集]
キハ40形・キハ48形気動車 - 小牛田運輸区(仙ココ)所属
キハ110系気動車 - 小牛田運輸区(仙ココ)所属(主に快速「南三陸」の運用で気仙沼線直通)
キハ28・キハ58形気動車は快速「南三陸」のキハ110系気動車への置き換えに伴い、2007年6月末で定期運用から退いた。なお、引退前は快速「南三陸」関連以外に石巻線内普通列車(非ワンマン運用)にも比較的多く充当されていた。

歴史 [編集]
1912年(大正元年)10月28日 【開業】仙北軽便鉄道小牛田 - 石巻(17.4M=27.9km) 【駅新設】涌谷、前谷地、佳景山、鹿又、石巻
1919年(大正8年)4月1日 【買収・線路名称設定】仙北軽便線小牛田 - 石巻(軌間762mm)
1920年(大正9年)5月23日 【改軌】762mm→1067mm(小牛田 - 石巻)
1921年(大正10年)1月1日 【線名改称】石巻軽便線
1922年(大正11年)9月1日 【線名改称】石巻線(軽便鉄道法の廃止による)
1939年(昭和14年)10月7日 【延伸開業】石巻 - 女川(17.0km) 【駅新設】陸前稲井、渡波、沢田、女川
1956年(昭和31年)2月12日 【駅新設】浦宿(沢田 - 女川間)
1956年(昭和31年)4月5日 【駅新設】曽波神(鹿又 - 石巻間)
1956年(昭和31年)8月1日 【駅新設】上涌谷(小牛田 - 涌谷間)
1958年(昭和33年)8月11日 【延伸開業】女川 - 女川港(1.4km)貨物線 【駅新設】(貨)女川港
1977年(昭和52年)10月1日 小牛田 - 前谷地間単線自動閉塞化。
1977年(昭和52年)12月11日 【部変更】陸羽線→東北線
1980年(昭和55年)8月1日 【路線廃止】女川 - 女川港(1.4km)  【貨物営業廃止】渡波 - 女川 【駅廃止】(貨)女川港
1984年(昭和59年)1月15日 【貨物営業廃止】石巻 - 渡波
1987年(昭和62年)4月1日 【承継】東日本旅客鉄道
1989年(平成元年)4月26日 【駅新設】万石浦(渡波 - 沢田間)
2001年(平成13年)10月14日 天皇・皇后の宮城国体臨席に伴い、1号御料車編成によるお召し列車を仙台から東北本線・石巻線経由で気仙沼線柳津へ運転(片道のみ)。DD51 842牽引(予備機:DD51 888)
なお石巻 - 女川間には、1915年 - 1926年にかけて軽便鉄道の金華山軌道が開通していたが、石巻線の開業に伴って廃線補償を受け、1939年に休止、翌年廃止となった。

駅一覧 [編集]
全駅宮城県に所在。
普通列車は全駅に停車。快速「南三陸」の停車駅は、列車記事または気仙沼線#駅一覧を参照。
列車交換 … ◇・∨・∧:交換可、|:交換不可

2009年03月08日

部族(ぶぞく、tribe)

部族(ぶぞく、tribe)とは、民族や氏族といった同一の出自や歴史的背景を持ち、共通の文化や言語、価値観の上で共同生活を営む集団のこと。

歴史的に、あるいは現在の発展途上国で呼称される「部族」は未開であったり、国家形成以前の形態をなすひとつのまとまりとしてとらえられる。多くの人々が、非西洋の、土着の社会にこの用語を使用している。

しかしスチュアート・ヘンリをはじめとした最近の文化人類学者・社会学者の多くは、部族と民族の呼称の間には明確な客観的な区別がなく、アフリカでの民族紛争では意図的に「部族」の語が用いられるなど「文明度」という差別的な植民地主義的評価基準が作為的に用いられているとして、部族の呼称を避けるべきであると主張する。かれらは、民族の下位分類としての氏族などの帰属集団は歴史的に差別的なニュアンスを帯びている部族ではなく、支族などの呼称を使うべきであるとする。

社会科学者は主に親族関係、特に集合的なものに基づき組織化された社会についてこの語を使用する。アメリカ合衆国などいくつかの国では、部族は法的な認知と限られた自治が国によって承諾された原住民である。
チップ ドミナ シェルパ トースター ダフる日本 ぶんたん シンクロ ドラバ ミスジャ スフレ デネブ バラン フレスコ ドンマイ モロヘイヤ ハンド リムパック バルナ ジュンブ 有明の月 リバランス リフィル 聖護院 ハイカ デフレー スライム 宵月の宴 アシスト パイオニア ハルビ トータル パード サラダ サーチ恋道 チェリ エイトビー ミルト ユーティ ランド ディー ゲーセン 世界の窓 スト チアナ タントラ スタンス 宝船 ヘアー ブルドッ フリーサ

部族を最も特徴付けるものは何かという議論も少なからず行われる。この議論には前国家的な部族と現代の部族の間に認められる違いに基づくものもあり、また文化進化と植民地主義上の、より一般的な論議も反映する。一般的な想像では、部族は predates(生き方)を反映し、近代国家におけるそれよりも「自然」である。部族はまた、原始的な社交性、明確な境界性、均質性、偏狭性、そして安定性に特権を与える。このようにして、部族で家族の間の繋がりを組織化すれば、すなわち「民族集団」や「国家」よりも境界を持った、連帯のための社会と思想の基礎を生むとよく信じられていた。

人類学的、そして民族歴史学研究は、これら全ての概念に挑戦した。

1972年、モートン・フライドの研究結果で部族の概念は、そのメンバーが異なった言語を話し、異なった儀式を行う例や、他の部族のメンバーと言語や儀式を共有した部族などの多数の例を見つけた。同様に彼は、部族の人々が異なった政治的指導者を支持する例、または他の部族のメンバーと同じリーダーを支持する例を見つけた。 彼は一般に、部族が境界の流動性と異質性により特徴付けられ、偏狭でなく、ダイナミックであると結論を下した。

考古学者達は全国家的な部族の発展について調査し続けている。

現在の研究は、部族の組織が豊富な、しかし、予測できない資源を供給する状況への1つのタイプの適合からなることを示唆する。そのような構造は余分にある時、人々を制限、または抑制しないで、物のない時に食物の生産と分配を調整するほど柔軟であると判明した。

しかしながら、フライドはほとんどの現代の部族が前国家的な部族にそれらの起源を持っているのではなく、むしろ前国家的バンドに持っていると提唱した。彼が示したそのような「二次」部族は実際に、国家の拡大の近代的な成果として生じてきた。バンドは小さく、可動性で、弱いリーダーシップを伴う流動する社会的な構成を包括する。それは余剰を発生させ、税金を支払わず、また常備軍を持たない。

フライドは以下の2通りで二次部族が発達すると論じた。

1つ目に、国/支配者は、直接の統治にコストがかかりすぎる場所では、後背地の支配及び経済への影響を広げる手段として部族を設定する。国の奨励により対象とされた人々は、境界をより明確化して政治的に集結した。なぜなら、このような政策で余剰と税金を生み出すことで、指導者層が隣接している国/支配者の必要性に敏感になるからである(合衆国や英領インドなどのいわゆる「計画された」部族はこの例である)。

2つ目に、バンドは国/支配者の拡大に対して自らを守る手段として「二次」部族を形成する場合もある。バンドのメンバーは、より明確な境界を持った集結された政治勢力を形成するだろう。なぜなら国/支配者と戦うことができる常備軍のための余剰を生産し始めることができ、経済的生産と軍事活動を調整することの出来得る指導力を持つためである。

アメリカ合衆国の連邦政府によって認知されたネイティブ・アメリカンはインディアン事務局によって管理されている。

2009年02月20日

マゼラン (機動戦士ガンダム)

マゼラン級戦艦( - きゅうせんかん)は、アニメ『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する地球連邦軍の架空の宇宙戦艦。サラミス級巡洋艦と共に地球連邦軍宇宙艦隊の主力である。
アイス スノー ランブ トリック フレデ マーチ シュテム マイウェイ ショナリー トーゴ ミクシィ スロット キール ビターオ キニン バイテク スタチン マジソン ピンドル オスカー 夏のロ ティハリー シンフォ ピョン ウムドン オマーン ミートボガ トッポッ ニズム スタン ベンジャ ダイヤ ランマ 大正琴 ガザ二ア ダイマー コットン ハラシ 道のむこ ショア マルク だいとう クーポン ピューリ チダー キシリ アンゴ ゆかいな スター ハニー

宇宙世紀0070年代の軍備増強計画にて就役した一番艦マゼランを筆頭に、いくつかの種類がある。本級は海上艦に倣った形状(艦尾の推進動力部を除く)だが、艦体四面うち三面を上甲板とし、指揮所・砲塔をそれぞれに配置して上下(艦橋←→艦底方向)360度の射界を確保している。2連装メガ粒子砲塔7基や対空銃座など火力は充実しており、艦隊旗艦や主力艦として配備されている。旧世代の戦艦であるため長距離索敵と誘導兵器の使用を前提としており、外観からもジオン公国の平均的な軍艦に比べレーダーや火力が充実しているのが見てとれる。

基本的に遮蔽物のない宇宙空間では、いかにモビルスーツ(MS)といえども遠距離で探知され、長射程ビームや誘導ミサイルにより接近する以前に撃墜されてしまうと考えられていた。このため、戦前の連邦軍首脳部はMS戦決戦思想を軽んじてしまった。

しかし、想定を大幅に上回るジオン軍のミノフスキー粒子を用いた対電子戦により、マゼラン級は本来の持ち味が全く発揮できない状況に追い込まれ、ブリティッシュ作戦やルウム戦役では、MSによりほぼ一方的な惨敗を喫してしまった。そのため本級は不本意にも時代遅れの大艦巨砲主義の象徴、連邦軍の見掛け倒しの弱さの象徴と化してしまった。

一方で、ソロモン攻略戦でグワジン級グワランはマゼラン・サラミス隊に砲撃戦で撃沈されたとされる(ソーラ・システムで消滅したとも)ほか、マゼラン(二世)はチベ級を一撃で貫通しそのまま一方的に撃破したりとさすがに攻撃力は高いようである(無効化されはしたが、ビグ・ザムに対しては長距離ビームをかなりの密度で集中させている)。

防御力に関してはTVシリーズ本編中に確たる描写はないが、後発作品では意外に脆弱で、ビームライフルや通常弾頭のMSバズーカ数発(狙いどころ次第では一発)であえなく爆沈している(劇中の描写では、連邦艦・ジオン艦共に防御面は極めておざなりで、ムサイやチベ、ザンジバルなども、数発あるいは一撃で沈むシーンがよく見られる)。

ちなみにビンソン計画での建造艦は簡易MS運用能力を得たが、『機動戦士ガンダム0083』ではこれを廃したマゼラン改級が就役(カタパルトらしい部分もあり、一応の運用能力があるとする説もある)しているが、これらはビンソン計画以前の生き残り艦の改修型とする説もある。ペガサス級強襲揚陸艦やトラファルガー級及びアンティータム級等の改装空母の就役と合わせ、MSは専用艦に任せる方針に変わったとも考えられるが、作品中にこれに関する具体的な設定は見られない。

メガ粒子砲は、TVシリーズの設定資料(前方上方向以外の物)では、前方の連装メガ粒子主砲×2とサイズの異なる連装メガ粒子副砲×5を指す配置と見て取れる。 しかしプラモデルなどでは全ての砲塔が同等の大きさで表現されており、それを参考にしたと思われる『MSイグルー』版のマゼラン、『0083』版のマゼラン改も、連装メガ粒子主砲×7という解釈となっている。

メカデザインはTVシリ?ズ版が大河原邦男、『ガンダムセンチネル』版があさのまさひこ。

諸元
全長:327m、全幅:94.5m、基準排水量:41000t、満載排水量:62900t、主機:熱核ロケット×4発推進
兵装:連装メガ粒子主砲×2、連装メガ粒子副砲×5、連装機銃×20、ミサイルランチャー×多数

主な同型艦
マゼラン(一世)
 ルナツー司令のワッケインが座乗。ノーマルスーツで潜入したシャアが仕掛けた機雷に引っかかり、メインゲートで座礁。その後ホワイトベースの主砲で排除。爆発撃沈。
マゼラン(二世)(艦名はレナウン、ゴルテウスとする説もある)
ソロモン攻略戦(チェンバロ作戦)時の第3艦隊旗艦。
先代マゼランに引き続き、ワッケインが座乗。TV版ではソロモン攻略戦に囮として参加、ホワイトベースらを従えソーラ・システム展開までの時間を稼ぎ、ソロモンを突破する。ソロモン陥落後の掃討戦においてテキサスコロニーでチベ級一隻を撃沈。その後シャアのザンジバルと単艦で交戦、撃沈されている。劇場版では、ソロモン攻略戦で集中攻撃を受けながらもミサイルの全弾発射を敢行、チベ級を巻き添えにしながら轟沈した。なお、無数のマゼラン級のうち、このマゼランだけが二代にわたって緑一色で塗装されている(劇場版では、シーンによって青だったり緑だったりと統一されていない)。
アナンケ
ルウム戦役時の連邦軍第1艦隊旗艦
先のコロニー(アイランド・イフィッシュ)落としを阻止すべく交戦した連邦軍第4艦隊の残存兵力等と第1連合艦隊を組み、指揮権がレビル中将にあったため連合艦隊旗艦となる。艦艇数や戦闘機数では勝っていた戦いであったが、ジオン軍モビルスーツの前に敗退。
この会戦中、旗艦アナンケは第7師団モビルスーツ大隊所属の特務小隊、通称「黒い三連星」のジェットストリームアタックによって撃破され、レビル中将も捕虜となった。
ネレイド
ルウム戦役におけるロドニー・カニンガン准将の乗艦。味方艦艇を宙域から撤退させる為、殿をつとめた末に轟沈。
タイタン
ジオン公国の宇宙要塞ソロモン攻略時の連邦軍第2連合艦隊旗艦であり、ソロモン攻略戦(チェンバロ作戦)の最高指揮官ティアンム中将の座乗艦。
ソーラ・システム照射によって連邦軍の勝利が決した直後、ドズル・ザビが操縦するビグ・ザムの大型メガ粒子砲の直撃を受け撃沈。ティアンム中将も艦と運命を共にした。
フェーベ
ソロモン攻略後の連邦軍第1連合艦隊旗艦であり、レビル将軍の座乗艦。ア・バオア・クー攻略作戦(星一号作戦)の指揮を執るためにレビル将軍が座乗していたが、宇宙世紀0079年12月30日、独断でレビル将軍と和平交渉を行おうとしたデギン・ソド・ザビ公王の座乗艦であるグワジン級戦艦グレート・デギンが接舷した瞬間、ギレン・ザビ総帥が作戦予定時間を前倒しして発射したソーラ・レイの照射を受けてフェーベは蒸発、レビル将軍も戦死した。この時のソーラ・レイ照射で集結していた連邦軍宇宙艦隊は総数の約3分の1(同時期宇宙に展開していた連邦戦力の約三割と言われる)を失い、デギン公王もグレート・デギンと共に蒸発した。
量産型は機関部後端が藍色に塗装されているが、識別用のためか本艦にだけは赤色の塗装が施されていた。
ルザル
ソーラ・レイを受けた後の連邦残存艦隊のうち、宇宙要塞ア・バオア・クーの「Sポイント」へ侵攻する隊(ホワイトベースを含む隊)の旗艦となった艦。シャアの搭乗するジオングの指先に搭載されたビーム砲の斉射の直撃を「沈め!」の掛け声とともに受け、周囲のサラミス級巡洋艦数艦を巻き添えに爆沈した。
ツーロン
『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』に登場するコンペイ島守備艦隊の旗艦。鎮守府司令ステファン・ヘボン少将が座乗し、核攻撃を受けた後に残存艦艇を再編してデラーズ・フリートに奪取されたコロニーを追撃した。
キリマンジャロ
U.C.0088年、ティターンズ残党の青年将校によって結成された反乱軍ニューディサイズの旗艦。改装によりモビルスーツの搭載、運用能力が付加されている。
フッド
上記キリマンジャロの僚艦。
ブル・ラン
ニューディサイズ討伐に派遣された討伐本隊(エイノー艦隊)の旗艦。マゼラン改級。しかし、エイノー提督の叛意により、ニューディサイズと共に戦う。
マレンゴ
上記ブル・ランの僚艦で艦隊旗艦とされていた。マゼラン改級。
ナガト
シャルンホルスト
ニューディサイズ討伐に派遣された討伐艦隊に所属するマゼラン改級。それぞれ本国艦隊旗艦。本隊旗艦とされている。

劇中での活躍
TVシリ?ズ『機動戦士ガンダム』劇中では、第4話「ルナツー脱出作戦」において、司令官ワッケイン少佐の乗艦であるマゼラン級マゼランとして初登場する。前述のように機雷により港口を塞ぐ形で擱座、砲撃で排除されている。

その後は星一号作戦において登場。サラミスと共に大量に建造され、ジャブローから宇宙に撃ち上げられた。これらはモビルスーツの搭載能力を付加した改修型で、モビルスーツは船底部より、ボールは上部砲塔後方の発進口からそれぞれ発進し、甲板に露天繋留している例も見られた。 ソロモン攻略戦(チェンバロ作戦)時にはティアンム提督が座乗したタイタン、ワッケイン司令が座乗していたマゼラン(二世)その他多数が登場している。

OVAシリーズ『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』では、一年戦争当時のマゼランを改修したマゼラン改が登場し、ステファン・ヘボン提督座乗のツーロンが確認できる。

模型誌の記事である『ガンダム・センチネル』では、艦首の砲塔を二基とも撤去してMS用カタパルトと格納庫を増設したオリジナルデザインのマゼラン改級が登場し、ニューディサイズのキリマンジャロ、フッド、エイノー艦隊のブル・ラン、マレンゴなどが登場している。

2009年02月04日

小西行長の一族

豊臣秀吉に仕えた戦国大名・小西行長の一族は藤原北家秀郷流を称する。

堺の豪商出身の小西隆佐は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に接近し信頼を得て家臣になった。

隆佐の次男・行長は一時宇喜多直家に仕え、直家と秀吉の間の使者を務めた。直家の死後は秀吉に仕え、気に入られるところとなったのか最終的に天正16年(1588年)ごろ肥後南半国24万石を領した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成や宇喜多秀家との縁から西軍に属するが敗北、行長は首謀者の一人として斬首される。弟の行景は宇土城を守るが加藤清正に攻められ関ヶ原本戦の西軍敗北が伝わると開城し自刃した。これにより大名小西氏は滅亡する。

行長の長男は毛利輝元によって処刑され、息子の1人はその二代後までは黒田氏の家臣浅山氏として確認できる。宗義智に嫁いだ娘のマリア(洗礼名)は離縁されその後は不明。マカオに追放されローマで修行して日本に帰国、処刑された明治時代以前の最後の日本人司祭・マンショ小西は行長の孫(マリアと宗義智の子か?)といわれている。 なお、行景の子孫は武家として存続した。

ルイス・フロイスらと交流があり、一家揃ってキリシタンだったことでも知られる。

高氏

(たかうじ)足利尊氏の諱(初名)、佐々木道誉の諱。
(こうし)鎌倉時代から南北朝時代にかけて足利家の執事を務めた一族。以下で紹介。
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高氏(こうし)は、高階氏の一族。源氏の棟梁、八幡太郎義家の家人である高階惟章が、義家の三男源義国とともに下野国に住したことにはじまる。以来高氏と称して、義国の子孫足利氏の執事となる。

南北朝時代に現われた高師直は、足利尊氏に執事として仕える一方で、建武の親政においては尊氏の代理として雑訴決断所の一員を務めるなど、頭角をあらわした。室町幕府成立後は、政治面では一族の高師泰や高師冬らとともに幕府の要職を占め、軍事面では北畠顕家や楠木正行を討ち取り、吉野へ攻め込んで南朝を崩壊寸前にまで追い込むなど、武功をほしいままにした。しかし、しだいに傲慢となったため、尊氏の弟の足利直義ら足利一族と対立し、一時は上杉重能ら政敵を抹殺し直義を失脚に追い込むものの、直義らの反抗にあって観応の擾乱が勃発し、敗れた師直ら高氏一族は上杉能憲等反師直方の武将に滅ぼされ、高重茂ら一部を除きほぼ全滅した。

高氏の一族としては、大高氏(だいこうし)、岡松氏、大多和氏、太田原氏、南氏がある。また、安芸毛利氏の家臣の国司氏(国司元相、国司親相)は、高師泰の子から派生した一族であるという。

系図
高階惟長

惟重

高重氏
┣━━━━━━━┳━━━━━┓
師氏    大高重長  岡松頼基
┣━━┳━━┳━━━━┳━━━━━┳━━━━┓
師重 師春 師信 大多和定義  惟義    師行 
┣━━━━━━━━━━━┳━━┳━━┓   ┃
師泰          師直 師茂 師久  師秋
┣━━┳━━┓     ┣━━┳━━┳━━┳━━┓
師世 久俊 師武    師友 師詮 師冬 久直 師夏

師茂 

師胤 

師興 

師厚 

香宗我部氏は日本の土佐国の豪族。室町時代初期から勢力を伸ばすが、戦国時代末期に長宗我部元親の弟親泰を養子として迎え、以降は長宗我部の一族となった。

歴史
1193年、甲斐源氏の一族中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷の地頭職となり、後に主家一条忠頼の子、秋通を養子としたのが香宗我部氏の始まりである[1]。ただし、地元の神社等には香宗我部氏が長宗我部氏に取って代わったとの伝承もあり、系図は複雑でわからない部分が多い[要出典]。

14世紀には香宗我部秀頼(甲斐孫四郎入道)が足利尊氏の命で長宗我部信能と共に介良庄の平定を行ったり[2]、1362年に香宗我部の一族が物部庄を得たりと勢力を拡張している[3]。15世紀の応仁の乱では上洛し、土佐国守護の細川氏率いる東軍に加わっている[4]。

戦国時代には、秋家の後裔と伝えられる山田氏[5]と共に土佐国で勢力を広げるが、山田氏は長宗我部元親に滅ぼされ、香宗我部氏は元親の弟親泰を養子に迎えることで滅亡を免れた。

関ヶ原の戦い後に一族が下総国佐倉の堀田氏に仕えており、一族の記録を現代にまで伝えている

後藤氏(ごとうし)は、日本の氏族の一つ。

利仁流後藤氏
史上著名なのは利仁流の一派で、美濃国の美濃前田氏の系統である。

この系統は後藤又兵衛を輩出した播磨の後藤氏、後藤貴明を輩出した(ただし貴明自身は大村氏からの養子)肥前の(武雄)後藤氏などがある。また、美作の美作後藤氏も播磨後藤氏と同族といわれる。

その他の後藤氏
さらに、藤原秀郷流の後藤氏(六角氏家臣の一族、後藤但馬守など)、伊達氏家臣の後藤氏(後藤信康、ただし信康は湯目氏からの養子)、土佐藩重臣の後藤氏(後藤象二郎)などが存在する。


2009年01月21日

登山(とざん)

登山(とざん)とは、山に登ることである。

その対象は、簡単に登ることができる近隣の丘陵からヒマラヤ山脈まで。現代では、信仰 のみならず、娯楽、スポーツ、職業として、広範な人々に親しまれている。

多くの宗教では、山は崇拝や信仰の対象であり、神そのものであるとされる場合もあった。そのため、様々な聖典や伝説で登山が記録されているが、これらの検証は困難である。記録に残る最古の宗教目的以外の登山は、121年にローマ帝国のハドリアヌス帝によっておこなわれたエトナ山への朝日を見るための登頂である。

ヨーロッパ
13世紀になるまでヨーロッパでは、登山は記録されていないが、これは単に識字率が低く記録を残さなかったためなのか、それとも登山自体が行われなかったのかは議論の余地を残す。1336年4月26日にイタリアの詩人、ペトラルカが弟ジェラルドを連れてフランスのアビニョン近郊ヴァントゥ山の登山に挑み、その頂上まで登った。その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは登山の父と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家のヤコブ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。

ルネサンスの始まりと共に趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王シャルル8世が1492年にAiguille山の登頂を命じたのは、この範疇に入る。レオナルド・ダ・ヴィンチはヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。16世紀にはスイスのチューリッヒを中心に登山を賞賛する動きがあり、コンラッド・ゲスナーとジョシアス・シムラーが度々登山を行っていたことが記録されている。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。奇妙な事に17世紀のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。

19世紀のスイス・アルプスは英国人登山者のメッカとなり、アルプスの主峰39座のうち、31座の初登は英国人によって達成された。

ジョージ・マロリーが「そこにそれがあるから-Because it is there.-」と答えたのはあまりに有名であるが、記者の「なぜ"未踏峰(エベレスト)"に登るのか」という質問への答えであることはあまり知られていない。北極、南極に次ぐ第3の極地エベレストは、征服すべき対象であるとも説明している。

日本
日本においては、717年に泰澄和尚が開山した白山、701年に越中の国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いた記録が残っている。鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)・室町時代(1336年?1573年)以降、山に関する記録が減っていくが、上記のヨーロッパについてと同様、何らかの理由で記録を残さなかったのか、実際に人が山に入らなくなったのかは不明である[1]。

日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代、1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉?ザラ(佐良)峠?平の渡し(黒部川)?針ノ木峠?籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越?御山谷ルート、別山?内蔵助谷ルートをとったという説もある。

ザラ峠とは安房峠(古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道を通って越中富山?遠江浜松を往復したのだ、という説もある[2]。

同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄の配下の武将山県昌景が、1559年(永禄2年)に飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている[3][4]。

1640年(寛永17年)に加賀藩によって設置され1870年(明治3年)まで続いた黒部奥山廻役は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った[3]。

文化・文政期(1804年?1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳、1828年の播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講などの講中登山がさかんになる。寛政期(1789年?1800年)に寺社詣でが解禁され、東海道中膝栗毛(1802年?1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる[1]。

江戸時代、文人画家池大雅、医者川村錦城、医学者橘南谿、画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている[3]。

江戸幕末、北アルプス麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、杣人や狩猟や採鉱などの山仕事でたくさんの人が山に入っていたと考えられる[1]。

江戸幕末以降、複数の欧米人が富士山に登った。1860年(万延元年)7月、オールコックが、人100名余り、馬30頭の一隊を組んで箱根を越え、山頂に登っている。1867年(慶応3年)10月にはパークス夫人が、1868年(明治元年)7月にサトウが登っている[3]。

明治時代(1868年?1912年)、複数の欧米人が日本アルプスに登った。アトキンソン、アーネスト・サトウ、ウィリアム・ゴーランド、ウォルター・ウェストン、バジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン などである。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある[5]。

その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎、木暮理太郎、小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った[5]。陸地測量部は館潔彦、柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる[3] 。

明治期の日本アルプスの登山では、信州の内野常次郎、上條嘉門次(梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、越中の宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵 など、地元の猟師が案内をした。
パラグラフ マンツ 東京ドド セダン キーボ オープナ ランドスケ フィギュア オシロ きゅうじ カオス トムソ ブック ゾンホルル うみがめ ピリン ココア ナイーブ デメリット ロバスト プレー けいこう マチネー メサ スクリー Sぎさん オフィビ ムスカリ スイーツ メタン デンパ アベバ 羽衣便り 五番街 パンケ じゃが 楽しむ トロイカ 万華鏡 サラダ ギネ バカンス ウォッ とよころ スタイロ ジャスト パワーシフト イクラ 紅の翼 レッテ

日本の「近代登山」のはじまりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年(明治7年)に六甲山における、ガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティによるピッケルとナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い。ガウランドは1881年(明治14年)に「日本アルプス」を命名した人物としても知られる。1889年(明治22年)には、ウエストンによってテント・ザイル等が持ち込こまれ、ウエストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」を設立した。この年を近代登山のはじまりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。

明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫と白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科・体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山、白馬岳、富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)ごろより、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵は1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した[7][8]。

明治時代、測量や地理学的な目的での登山が行われた。1882年(明治15年)8月 内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)大塚専一の針ノ木岳-立山-後立山縦走などである[3]。

陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された。

明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始めた[9]。

これを受けて、1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのにはじまり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった[9]。

また、1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた